三月は、グラウンドの割り当てが週に一回だ。足先で味わうようにマウンドの土を均してから、軽く息を吸い込んだ。ピッチャープレートに両足を乗せ、そして振りかぶる。左手の指先に神経を集約させて、自分なりにベストのリリースポイントを意識しながら、球を放った。しかしボールは真木先輩の構えるキャッチャーミットの遙か上方、後ろに置いていた防護ネットのフレームに当たった。球の勢いが死に、地面にぼとりと落ちた。
「ノーコン」
 吐き捨てるような言い方。彼女は水色のジャージの上に、キャッチャー用の防具をつけている。今残っている道具はすべて、引退した先輩たちが残していったものだ。
 久しぶりのマウンドでの投球で力んでしまった、は言い訳にならない。黙って返球を受け取る。怒りを表すような強い返球だった。右手が痺れた。
「夏大の時みたいな球、放って見せてよ」
 真木先輩は、そう言って、グラブを構え直した。
 振りかぶり、足を踏ん張って、放る。しかしまた、防護ネット。その次も。
 真木先輩がキャッチャーマスクを額まで上げてマウンドに駆け寄ってくる。
「やっぱり、女相手だと、投げにくい?」
 少し、寂しそうな言い方だった。週に一度のマウンド、それが防護ネット相手というのもあまりに味気ないだろうと、今日は真木先輩が自らキャッチャー役を買って出てくれた。
 首を横に振る。尻ポケットに入れていたロジンバッグを左手で触り、口の前に持ってきて、息を吹きかけた。真木先輩は頷き、キャッチャーとしての定位置に戻った。
 一週間ぶりの投球練習が嬉しくて、嬉しくて、ボールをコントロールできないだけだ。嬉しさは今の三球で吐き出した。俺は、軽くでなく、しっかりと息を吸い込んで、吐いた。今では少なくなりつつある、頭の上に腕を上げる正統派のワインドアップモーションから、投げ込んだ。今度は、上手く指先から離れた。真木先輩の構えるミットのど真ん中に、ボールが吸い込まれた。小気味のいい音がした後、ボールがグラブから零れ落ちた。
「いったぁぁぁ……」
 真木先輩は左手を抑え、うずくまった。
 マウンドを降りて近寄ろうとすると、地面を向いたまま、手で制された。
「へーき」
 結局、三十二球を投げ込んだ所で、ホームプレートに膝をついた真木先輩が両手でバツを示した。真木先輩が、防具をつけたまま膝立ちでネットの後ろに移動してからは、俺ひとりで防護ネットへ向けて百二十球を投げた。
 先輩たちと一緒に行っていた練習メニューは、真木先輩のメモを基に少しアレンジし、投球練習の前にこなしてあった。投げ込み後は、中学の頃からの習慣の体幹をやった。そのあと、真木先輩に手伝って貰い、体のストレッチとクールダウンを済ませてから上がった。今日も、顧問は来ない。先輩たちが引退してからは、一度顔を見せたきりだ。
 ボールをプラスチックの箱に入れて、用具入れへ戻し、防護ネットを二人で運び、用具入れへ戻す。四つあるベースをそれぞれ二つずつ運ぶ。片付けの間中、何故か真木先輩はグラブをはめたままだった。疑問に思ってじっと見ていると、視線に気づいた真木先輩が、苦笑いした。
「慣れようと思って」
 そろりとグラブから引き抜かれた真木先輩の手は、用具入れの暗がりでよく見えなかった。しかし、校舎から洩れる灯りの下に出た時、見えた左手は、痛々しく腫れていた。慌てて謝ると、また苦笑い。
「いやいや、いいよ。達吉くんが練習してる間、冷やしといた。それに私、中学まで、男子に交じって野球やってたんだから。このくらい、慣れてる。でもあれだね。一年以上も離れると……硬球を相手にすると、ここまで違うんだね。怖いし痛いし」
 俺と真木先輩は、いつものように、駐輪場で別れた。

 去年の夏。この浦部第一高校に入学し、初めて迎えた夏の選手権大会地方予選。三年生部員が六人、二年生部員がゼロ、一年生部員が二人、顧問はいるが、監督はいない。そして一人を他の部活から借りたメンバーで出場した俺たちの高校は、くじ運にも恵まれ、一回戦、二回戦を突破した。俺はどちらの試合も一人で投げ抜き、三回戦も先発した。しかし古豪と称される三回戦の相手には全く歯が立たず、二十二対一と大差をつけられ、五回コールドで負けた。つまり、左腕という一種の特殊性が通用したのは、そこまでだったということだ。反吐を撒き散らす苦しい練習に打ち込んできた人間に対しては、左腕だろうが右腕だろうが、実力だけがものを言う。
 入ったばかりの一年生に投手と四番のポジションを譲り、三番でファーストに入った入江先輩は、そんな大差のゲームでも声を出し続けていた。一回表、俺がワンナウトも取れずに五点を奪われた時も、マウンド上に向かって、常に声を出し続けていてくれた。その声掛けがなければ、もっと得点を重ねられていただろう。監督役もこなしていた入江先輩は、引退後も、よく練習相手になってくれ、投球フォームの改善点や変化球の使いどころなどを何度も話し合った。そんな入江先輩は、卒業して、もういない。遠く大阪の大学で一人暮らしをするそうだ。
 三年生が居なくなると、それまで二人いたマネージャーも辞め、俺と同学年の部員も辞めた。つまり今の浦部第一高校野球部は、マネージャーは真木先輩一人、選手は俺一人。入江先輩、真木先輩と協力して作り上げた今の投球フォーム、体も大きくなり増した球威で、どこまで通用するか。どうしても試したくて、他の部活を駆けずり回って試合に出てもらえないかと頼み込んだが、その部活部活の顧問と、硬球で怪我した際の責任の所在で揉めた。結局、クラスでよく一緒に居る三人しか、集められなかった。当然、地域の新人戦、秋の地方大会には不出場。
 既に、来月、新入部員が入らなかったら、廃部になることが決まっている。今年高校に入る後輩にも声を掛けているが、反応は芳しくない。県立は私立と違い、併願できない。落ちたら、二次募集がある県立以外には絶対に入れない。せっかく受かった所で、まともな試合ができるかすら怪しい高校。高校で野球を続けるか決めかねている人間もいる中、野球を続けると決意している人間は、そんな場所で高校での野球を棒に振りたくはないだろう。

 そして四月。二年生になった俺と、三年生になった真木先輩の必死の勧誘も虚しく、新入部員は、ゼロだった。
 廃部。
 廃部後、真木先輩との連名で、とりあえず同好会を立ち上げようとしたが、野球部は相当に嫌われていたらしく、誰も顧問になってくれなかった。それまでの野球部の顧問ですら。
「私が一年生の頃、監督が、部員を暴行して大怪我をさせた暴力事件と、部内での暴力事件が同じ時期に起きてね。部内の暴力事件のほうは、当時の三年生が一年生に対して……つまり私の学年の何人かを手酷くやったの。それで私の学年の部員は全員辞めちゃって。教員でもあった監督は懲戒免職、野球部は半年間の対外試合禁止。二つの不祥事の対応でいろいろあったから、野球部は嫌われ者。もうあれから一年以上経ったし、達吉くんは、何も悪くないのにね……」
 廃部後は、当然のように、グラウンドの使用許可は出なかった。部や同好会に所属していない人間に割り当てるスペースはない。正論だった。
 同好会づくりを手伝ってくれる真木先輩に、俺はことあるごとに礼を言った。真木先輩はことあるごとに、苦笑を零した。
「私は、野球が好きで、野球に関わっていたくて、マネージャーになったんだよ? 自分の為にやってるんだから、お礼を言われる筋合いはない」
 しかし四月いっぱい続けた抵抗も虚しく、五月に入り、一旦、学校での活動を諦めざるを得ない時が来た。要するに、嫌になった。野球以外の事で、ごちゃごちゃと患わされることに。いくら声をかけても、部員が集まらない。顧問になってくれる人間もいない。むしろしつこい顧問の要請を煙たがられ、一部の教諭たちには、全くの無視をされるようになった。
 無意味なことに時間を割くなら、練習がしたい。
 駐輪場の、いつも真木先輩が停めている場所の近くで、彼女が通りかかるのを待った。しばらくして、両耳にイヤホンをした真木先輩が、足もとのアスファルトを眺めながら、歩いてきた。声をかけたが、聞こえていないようだった。仕方なく、彼女の前に立ちふさがった。
「達吉くん。今帰り?」
 イヤホンを両方外し、真木先輩は微笑んだ。
 ここ最近は、真木先輩の苦笑いしか見ていなかったので、たじろぐ羽目になった。真木先輩は、俺の横を通り、自転車を引っ張り出した。
「あんまり上手くいかないねぇ。私なんか、成績の事まであげつらわれて……」
「先輩、諦めませんか」
 言いにくくなる前に、思い切って言うと、真木先輩が笑みを消した。
「もちろん、掲示板とかを使って、部員の勧誘は続けますよ。けど、野球なんて、ボールとグローブあればできますし……。どうせやっても無駄なら、練習、したいですし。先輩、受験生だし、これ以上、無駄なことにつき合わせたくないです」
 一瞬、真木先輩の動きが止まった。
 自分の為にやっている。口癖のように言われてきたことを今さら思い出し、俺は慌てて訂正しようとした。
「あ、違います、無駄じゃなくて」
「無駄。無駄かぁ……」
 訂正を入れる前に、今までに聞いたこともないくらい、冷たい声音。
「じゃあ、やめよう。今日限りで。掲示板のも全部剥がす。顧問を頼むのもやめよう。ああ、なんか、無駄なことに付き合わせてごめんね? そっかぁ、無駄だったんだ。全部、無駄?」
 真木先輩は冷めた声のままそう呟き、自転車を押し始めた。訂正を言わせずに先走る真木先輩に、少し苛立つ。
「待ってください。俺の話を」
「私も、明日、一緒に部員を勧誘するとき、切り出さなきゃ、って思ってた。でもそれは、ひどいよ。無駄は、ひどいよ。私、無駄だなんて思ったことなかった。達吉くんには……来年がある。ここで頑張っておけば、来年、先生たちの意見が変わるかもしれない。来年、野球をやる人たちに繋がればって思ってたから、私、ずっと、達吉くんの練習にだって、付き合ってきて……」
「先輩、そうじゃなくて、今のは」
 先輩はイヤホンをつけ直すと、自転車のスタンドを蹴っ飛ばした。明らかに不必要な力が加わっている。
 そのまま走り去っていく自転車を見つめながら、俺は溜息を吐いた。
 気の抜けたボールを投げ込んだ時の返球などで、薄々気付いていたが、真木先輩は短気だ。沸点が低い。
 翌朝、登校した時、学校の駐輪証明ステッカーの番号から、真木先輩の自転車を探した。カゴに、メモ用紙を入れる。
『無駄っていうのは、失言でした。ごめんなさい。でも先輩、すぐ謝ろうとしたのに、何も言わせないで帰る先輩も先輩だと思います』
 帰り。俺の自転車のカゴにも、メモ用紙。細くて小さい字。
『ごめん。生活指導の小野田のせいで苛々してた。明日からまた練習付き合うから許してください』




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