four S ―叶わなかった平和―
9
「先輩!」
駆け寄ってきたのは七尾だった。石黒は伊世から預かった歯を、慌ててズボンのポケットに押し込んだ。
七尾の後ろから、独房の世話役と、新山がゆっくりと歩いてくる。
新山はまずこちらを見て何か言おうとした後、
「早かったわね」
という声に、驚いたように伊世の方を見た。
それからすぐに、傍らを歩いていた独房の世話役に
「伊世と人基は近くにしないでって言ったはずよ!」
「あっ、いえ、その、隅にまとめていたほうが管理が何かと楽でして」
新山はまだ何か言いたそうにしていたが、じっと新山を見ている石黒の視線に気付くと、口をつぐんだ。
七尾以外に対して声を荒げる新山は、ほとんど見ない。
どうして怒ったのだろう。
石黒と伊世が話すと、何かまずいことでもあるのだろうか。
そう、たとえば……自分の出自を知られてしまうかもしれない、というような。
わからない。どちらが嘘をついて、どちらが本当のことを言っているのか。
「先輩、いま出してあげますからね」
張りつめた空気の中で、オレンジ色のバトルスーツを着た七尾が、ひとりだけ嬉しそうに言う。
独房の管理者の男が、カードキーを取り出し、差しこんだ。暗証番号が入力され、鉄格子の扉が開く。
「ごめんなさい、こんなところに押し込めたりして」
新山が頭を下げた。
彼女が裏切り者だなんて、考えすぎだったのだろうか。
「いいですよ、別に。狭いところは好きですしね」
伸びをしながら、あえて相手を信用してる風に、軽口を叩く。
新山は微笑したあと、すぐにその笑みを消した。
「さっきの爆発で基地のどこかが破壊されて、レナント軍の少人数部隊が紛れ込んだみたい。人基の力を貸して」
「わかりました」
頷くと、新山も頷き返して、歩き出した。七尾も管理者も続く。
新山は、伊世を殺さなかった。内通者かどうかはともかく、ひとまず新山はまだ、私刑を行い4Sの規律を軽んじる人間ではない。
そのことに安堵を覚えたが、逆に今度は、伊世が疑わしくなってくる。
「あの……叔母は出してもらえないんですか」
「それは無理」
「どうして」
「事情はあとで」
独房を出ると、さほど広くない廊下は、慌ただしく行き交う人々でごったがえしていた。
「人基とスイにはまず、作戦室へ一緒に来てもらう。基地が襲撃された場合、あそこにひとまず情報を集約する手はずになっているから」
そう説明した新山はあまり運動能力が高くなく、石黒と七尾から、やや遅れがちについてくる。
新山が裏切り者ではなかった場合、残る容疑者は、情報部部長の江田か、研究部部長の伊世だ。能力から考えれば伊世のほうが確率は高い。高いが、これまでの事件に伊世が絡んでいる決定的な証拠がない以上、江田の線も残る。
それに、伊世は言っていた。姉を殺したレナントの人間が憎いと。一日中研究室で生活していた時期もあった伊世の、仕事へ向かう原動力は、レナントへの憎しみだったはずだ。伊世の考えていることはときどきよくわからなかったが、レナントへの憎しみだけは、絶対に、間違いなく共有していたはずだ。
その伊世が、どうして裏切るのだろう。
怪しいと言うのなら、情報部の江田の方がずっと……。
「先輩」
後ろからの声に振り向くと、
「みかげさんとはぐれちゃったみたいです」
「は?」
この人ごみだ、そこまで速く走っていたわけではなかった。
いくら新山の運動神経が悪いと言っても、はぐれるほど速くは。
ふと、石黒は足を止めた。
すっかりなくなったものと思い込んだ可能性が、まだ、残っている。
すぐに引き返す。
七尾を置き去りにして、人や物を突き飛ばすのも気にせずに駆け戻る。
先程出て来たばかりの独房の前に立ち、重い鉄扉を押し開けた。
薄暗い独房の廊下に、新山が、何かを持ってぽつりと立っていた。
扉を開いた音に気付いているはずの新山はこちらを見向きもしない。
駆けだした人基よりも早く、銃声が弾ける。
四度鳴ったところでようやく新山に体当たりすると、突き飛ばされた新山が、奥の壁に激突して、うめいた。
人基は床に手をついて起き上がりながら、さっきまで伊世がいた独房に、視線を遣る。
仰向けになった伊世の身体に穴が開いて、中から血が洩れ出してくる。
誰がどう見ても致命傷だ。もう、助からない。
「母さん……」
鉄格子にすがりついて、呟く。
新山がうめきながら言う。
「その女が、レナントに寝返れば、この国は終わる。だから、わたしは、あなたに憎まれても……」
一瞬だけでも新山を信じた自分と、『母』を信じ切れずにその死を防げなかった自分。
この期に及んで伊世に罪をかぶせようとする新山。
さまざまな感情がせめぎあって頭の中が真っ白になった。
「俺に憎まれてもいいっていうなら」
鉄格子から手を外し、壁に手をかけて立ち上がろうとしていた新山に歩み寄った。
足音に気付いた新山がこちらを見た。
人基はその首に右手を叩きつけた。
「俺に殺されてください」
壁に押し付けて、首を絞める手に力を込める。
「ひ……とき」
苦しさからか、その目から涙がこぼれてくる。
それでも手は緩めなかった。
逃れようと手足を必死に動かす新山だったが、自分にとっては何の脅威にもならなかった。
新山が言葉すら発せず、顔の色が変わってきた。
背後で、銃声が弾けた。
「次は頭に当てます」
七尾の声だった。
新山を殺す、その事以外何も考えられなくなっていた頭が、冷えていく。
「石黒特級隊員! 再度警告します。両手を挙げてみかげさんから離れなさい!」
手を離すと、新山が咳と激しい呼吸を繰り返しながら、床に倒れた。
バトルスーツを着た相手に素手では、どうあがいてもかなわない。
手を挙げたまま、振り向く。
七尾は歯を食いしばって、その手にある拳銃は震えている。
「先輩、これは立派な殺人未遂ですよ!」
「殺したのは、みかげさんが先だ」
石黒が伊世の倒れている独房に視線を遣ると、七尾は銃口をこちらへ向けたまますり足で移動した。
七尾は一瞬だけ独房の中を見るふりをして、やめた。こちらの動きを警戒しているのだろう。戦闘中は、ふだんの性格がなりを潜める。
石黒が動かなかったので、七尾は今度こそ本当に独房の中を覗いた。
あおむけで倒れている伊世が目に入ったはずだが、
「わかりました。信じます」
それでも七尾は銃を降ろさない。
「石黒特級隊員と新山作戦隊隊長、双方を私刑罪で拘束します」