four S ―叶わなかった平和―


 両親が殺されたとき、なにもわからない子供だったほうが、まだよかったのかもしれない。よくわからないうちに周りが話を進めてくれていただろうから。けれど石黒の盾代わりになった両親がクリーチャーに食い殺されたのを間近で見たとき、石黒は色々な分別が付き始めた十歳だった。
 伊世が初めてかけてくれた言葉はいまでは思い出せない。その時は周りの気遣いに反応できるほど余裕はなかったのだろう。記憶そのものにも何かもやがかかったようで、学校にきちんと通っていたかとか、ご飯を食べていたのかとか、いろいろなこともあまり思い出せない。そんなまともでない状態の子供を、伊世はよく預かってくれたと思う。
 伊世がしてくれたことはほとんど覚えていないけれど、伊世が一人で姉の写真をじっと見つめていたり、毎日の墓参りを欠かさず時折石黒のことも連れて行ってくれたりしたことは、外からくる『伊世姉ちゃん』でしかなかった人と親子になっていくのに十分な共感を与えてくれた。
「みかげさんが裏切り者だとして」
 石黒は壁に囲まれた薄暗い独房の中でぼんやりとしながら、鉄格子越しに見える、向かいの独房の『母』に対して呟いた。
「どうしてそんな割に合わないことをするんだ」
「人基が4Sに入って、確か今年で十年だったかしら」
「ああ」
「じゃあ、みかげの出自も、知らないのね」

 ――あの女はもともとはレナントの人間だったの。4Sでいう情報部に所属していたエリート。軍人一家だったみたいだけれど、父が下手を打ったらしくて、処刑されそうになって追われていたところを、わたしたちが保護した。
 本名はミシェル・ニイド。新山みかげという名前をつけたのが、彼女を保護した佐藤しず。みかげは開戦してしばらく、『千里眼』なんて呼ばれるほどレナントの攻撃をうまく読んでいたけれど、レナント軍にいたんだから他の人間よりレナントの内情を知っていて当然よね。祖国を裏切り続けて、いまの地位を手に入れたようなものよ。
 けれどそれもヒノが勝つまでの話。ヒノとレナントのパワーバランスはすでに逆転したわ。みかげはレナントそのものに愛着はあるみたいだったから、これ以上4Sが力を持てばレナントが逆に滅ぼされかねないと思ったのかもしれないわね。講和条約で、レナント軍の上層部の多くは、戦争犯罪人としての処刑が明記されているわ。当時新山とその父を陥れた人間も含めて、多くの首が飛ぶ。4Sを壊滅させて国への忠義を示すなら、このときを待つしかなかったのでしょう。
 まあ、動機なんてどうでもいい。
 結果としてあの女は自分を保護してくれた恩人を殺し、わたしを使ってありもしない裏切り劇を作り出し、4Sを機能不全に陥らせている。
 あの女が心の底から楽しそうに笑っているのを見たことがある? ないでしょう?
 あの女は平気で人をだませる。ま、その点で言えば、わたしも似たもの同士だけれど。みんなが信じるのは、わたしよりも演技が上手い新山のほうね。
 CH計画? ああ、あれもあの女の発案よ。生物兵器に関する知識は、うちの研究部にもひけをとらないものがあるわ。ひょっとしたら新たな兵器も手土産にするつもりだったのかもしれないわね。わたしや人基を殺さないところを見ると、まだ未練があるのかしら? 人基を殺すと脅されれば、わたしはCH計画を研究するつもりだしね。できれば殺さずにおきたいのかもしれない。

 独房に収監されてもう一週間が経っただろうか。石黒は日課の筋力トレーニングを終えた後で、汗をぬぐいながら、壁に背中を預けた。体をいじめている間は、新山と伊世を天秤にかけることから離れられるが、体を落ち着けた途端に、新山を疑う気持ちが頭をもたげてくる。
 日笠副部長が亡くなったことで、新山に対する気持ちが日に日に疑いの色を濃くしていく。
 あのとき、自分は新山を殺すべきだったのだろうか。それとも、正面の独房でじっと目の前の壁を見つめ続けている母親代わりの女を殺すべきなのか。
 死に対する感覚が麻痺しつつある自分でも、特に喪いたくないふたり。どうして二人を疑わないとならない。二人とも内通者じゃない、それでいいはずだ。
 けれど、そんな希望的観測に身を預けられるほど、石黒は人間を信用していなかった。
 ……七尾翠以外の人間を。
 新山が裏切り者だった場合、伊世が裏切り者だった場合。それぞれの場合で、最短で殺すシミュレーションを何度も何度も繰り返す。頭がおかしくなりそうだったが、それが責任だ。レナントとの戦争を生きのび、これから少しは平穏な生活が訪れたかもしれない人たちに対する。
 新山か、あるいは伊世が自分を殺さなかったのは、おそらく何らかの利用価値を認めているからだ。そこに隙がある。武器はなくても人は殺せる。
 問題は、どちらの言っていることを信じればいいのかわからないことだ。
 髪に手をうずめてじっと床を見つめていると、突然、遠くで聞こえた爆発音と同時に、大きな揺れが独房を襲った。
 思わず立ち上がった人基は、壁に手をかけて揺れに耐えた。
 揺れが収まったところで
「人基」
 と、向かいの独房で、伊世が呟く。
「この揺れはみかげが起こしたものでしょうね。たぶん、みかげはわたしを殺しに来る」
「相変わらず話が唐突だな……。あんたには利用価値があるんだろ? このあいだ自分で言ったこと、もう忘れたのか?」
「できれば殺さずに、よ。いまの爆発音で、何か別の状況が始まったと考えるべきでしょう? たとえば、みかげに手引きされたレナント軍がなだれこんできた、とか」
 4Sと連携してレナント軍を撃退した、ヒノ国精鋭部隊の東部国境守備隊が、レナント軍の侵入を見逃すはずはない。そう反論したかったが、石黒は伊世に議論で勝ったためしがなかった。思考過程をこちらに見せず、的確な結論だけ言う伊世に、頭の回転ではかなわない。
 石黒はあくまでも新山と伊世の中間点に立っていようとして、苦し紛れに4Sの規則を持ち出した。
「いくらみかげさんがいまの4S内で最高の実力者でも、私刑はできない」
 各隊員が自分の判断に基づいて怪しい人間を殺していたら、とっくに4Sは内部から崩壊している。
 レナントによる切り崩し工作はそれほど、凄まじかった。
「4Sの団員殺害の命令が出せるのは情報部の特殊監査委員会で全会一致の賛成が出たときだけだ。そんなこと、いちいち説明しなくてもあんたなら……」
「だから、勝手に殺しに来ただけでも証拠になると思わない? レナント軍に寝返るとしたら、4Sの規則は関係なくなるわ」
「それは、そうかもしれない……」
 三年前のあの内通事件のときも、4Sは後手に回って傷口を広げたが、特殊監査委員会の綿密な調査のおかげで、同罪とみなされ殺されかけていた七尾は命を拾った。団員たちは冷静な裁定を下した4Sに改めて忠誠を誓い、結束はより強固なものになった。
 だから新山が本当に4Sを重んじているのなら、私刑は行わない。それだけは絶対に言い切れる。
 それに団員が私刑を行った場合、他の団員はその人間を拘束する必要が出てくる。いくら大功労者の新山でも、だ。
「それで、わたしが殺されたあとのことだけど」
 伊世は少し投げやりに言った。
 どうして死ぬことを簡単に口にするのかと、文句をつけたくなったが、黙っておいた。
 これも、伊世が自分自身を弱く見せるための演技かもしれない。
 新山、あるいは伊世が本気でだましにかかって来ていたら、見破れる自信はない。
 だからすべてを疑うしかない。
 新山に銃を向けられたあの時のように、信頼という言葉を自分でずたずたに引き裂く痛みは、なるべく取りあわないようにした。
「わたしが死んだらすぐに、今から渡すものを持って、わたしの研究室へ行きなさい」
 そう言うと、伊世はなぜか、右手を口の中に突っ込んだ。そうして何かもごもごとやったあと、口の中から何かを取り出した。
 それは白い歯のように見えた。伊世はそれを白衣の袖口で念入りに拭ったあと、鉄格子の隙間から強く転がした。転がってきたそれがこちらの鉄格子にぶつかって止まったので、指を伸ばして拾った。
「研究室の奥へ進む『鍵』よ。そこで、どちらが裏切り者だったかが、はっきり……」
 伊世が口をつぐんだ。
 重たい扉の開く音がして、薄暗い独房に、光が差しこんだからだった。